思春期と超能力

『七胴落とし』

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神林長平、1983年の長編。デビューしたのが1981年だから初期の作品だね。


予備校に通う三日月は、19歳の誕生日を間近にひかえ、言いしれぬ不安に苛まれていた。大人になれば、他人と意識を共有できる感応力が失われてしまうのだ。同級生たちの危険なゲームに誘われる三日月。その身辺に現れる現実とも幻ともつかない少女・月子。崩壊していく現実感覚のなか、祖父が所蔵する妖刀“七胴落とし”の鋭利な死のイメージに囚われていく三日月であったが…(裏表紙より)

この前読んだ『戦闘妖精・雪風(改)』がメチャメチャ面白くて、図書館で借りてくる。小説で全作品読んだ作家って今のところいないんだけど、神林長平は全部読んだみたいな。

自分の読書の嗜好がイマイチ分からなくて、色んなジャンルをちょっとづつ読んでみたけど、結局SFに一番興味があるみたい。
最近何冊か読んだ小川一水もハードSFの新鋭だし。


っていうか、ラノベないしジュブナイル小説とか読みやすい文体のものばかり読んでると、こういったガチガチでグニャ~とした文章読むとそれだけでやられてしまう。
特に『七胴落とし』は『戦闘妖精・雪風』と違って“ワケのわからない世界”なんで酔ってしまいそうだったよ。映像化したら凄いことになりそう。

現実と虚構の区別がつかない世界は、砂上の楼閣の上でブレイクダンスを踊っているようで、もの凄く自分を不安にさせる。
映画だったら『アンダルシアの犬』、アニメだったら今敏の『パプリカ(筒井康隆の原作も)』『妄想代理人』、あるいは『エヴァンゲリオン』の最後のほう、小説だったら内田百閒の短編。
そういった作品はホラーと違った恐怖を感じながら、とても魅力的だったりする。

どこからが現実で、どこからが幻なのか。この作品でもまったく分からない。もしかしたら全部現実なのか、全てが妄想なのか。
何故、七胴落としは家にあったのかー。分からない分からない。

そもそも設定の基礎の“予備校”が曲者。ここで言う予備校とは高校を卒業していながら感応力を失っていない少年少女をある種監視するための場所。

この世界では子供と大人は明確に区別されている。感応力があるかないか。

と少なくとも三日月は思ってる。大人は醜いと唾棄しつつ、自分が大人になることに激しい恐怖心をいだいている。
要は彼は餓鬼なんだよね。周りの大人もそれを知っている。けど彼は頑なに認めず、相手をただひたすらになめている。
筒井康隆の『愛のひだりがわ』では不思議な力を子供の能力として、それを喪失することこそが大人になることだったけど、感応力の有無は、実は些細なことに過ぎないんだと思う。体が大人になる過程の変化の一つにすぎないんじゃないだろうか。
感応力があっても大人となっている人もいるし、いくつになっても子供のままの人もいる。(皮肉なことに三日月自体がそれを証明することに)。

にも関わらず三日月が感応力に固執して、“大人”になることに恐怖するのは力を失うことに恐れていたのではなく、自分という存在の小ささを実感させられる大人の世界へ入ることへの不安と、また自分がなめられる立場になることへの焦り、要はプライドがためだったのだと思う。

正直なところ、自分はあまり「大人は汚い」とか「大人になりたくない」とかあまり思うタイプじゃなかった。まぁ別に大人を尊敬していたわけでもないけど、子供と大人をあまり区分するような子供ではなかったと記憶している。必ずしもポジティブな理由からでもないが、大人になることに嫌悪感はなかったし、今でもない。
といってもいまだに大人になりきれず、ウダウダやってるんであまり大したことは言えないけど…。

まぁ話がそれたけど、何が言いたかったかと言うと、三日月に全く共感できなかったということが言いたかったんだよね。まったく共感できないけど、どうなるのか気になって読み出したら止まらなかった。


誕生日おめでとう。

その扉の一言が印象的だった。

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by dentaku_no_uta | 2008-03-27 01:24 | 小説